昭和四十七年八月二十七日 朝の御理解

X御神訓 「やれ痛やという心でありがたし今みかげという心になれよ。

 これは信心がなからなければ出来る事ではない。やはり痛い事は痛い事だけで終わる。お道の信心を頂かせて頂きますと、この痛い事もおかげであると、分かりますから有難い。痛いけれども有難いという、お礼を申し上げる心も生まれてくるというものです。
 Z『私は今日御神前で日勝り月勝りという事を頂いた。これは誰でもが願う事だと思うのです。日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂きたいという願いは人間誰しもが持つ願いだと思います。信心をさせて頂いておれば、いつの間にか何とはなしにおかげを頂く。これはもう事実です。信心は例えば信心が出来んでも、金光さまと唱えて何十年間、例えば信心を続けておる人達を見てごらんなさい、何とはなしにおかげを頂いておる。
 だから何とはなしにおかげという事も有難いですけれども、ここでは日勝り月勝りと、言うならば伸びていくのが眼に見えていくように、太っていくのがそのまゝ太っていっておると感じられるほどしに、私は日勝り月勝りとはそういう事だと思うですね。だからそういうおかげを頂かせて頂くということ。今日はその事を頂いて、今日の御理解として頂くのが、この御神訓のやれ痛やという心でというこの御神訓なんです。
 それとこれとを思い合わせて、はゝあ日勝り月勝りとはこういう信心をさせて頂く事によって、それが身についた時に、確かに日勝り月勝りのおかげが受けられるなと、こう感じさせて頂きました。やれ痛やという事は痛いという事だけではありませんよね。やれ痛いという事があるかもしれません。いわゆるやれ歯痒いという事があるかもしれません。やれ腹が立つという事もありましょう。やれ情けないという事もあると思う。そういう事なんです。
 そのやれ情けなやという心の、その奥にはです。有難いという心でなからなければいかん。そういう心で受けなければならんという事なのです。成程そういう生き方が身についたら、確かに日勝り月勝りのおかげが頂かれるでしょうねえ。』昨夜も土居の共励会から帰ってみえましたのが、他にも用事があったりで一時も過ぎとったんじゃないでしょうか。それから文男先生が足をもんでくれたりしましたから、やすむのは二時半でした。それで足もんでもらいながら話を聞いたりさせて頂いたりしたんですけれども、もう兎に角この御造営の事の、例えば古屋さんが設計をなさった。
 この前もそうだったですけれども、御自身が健康であれば、自分が毎日出て来てから、自分の設計のところも、こゝはあゝせろ、こうせろと、指図をされるつもりだったんだろうと思うです。もう今になって、それを誰も指図する者がおらんもんですから、もうちよっと眼をさましたら、とんでもない事をやってる訳です。とんでもない事をやってるという事は、そんなら無茶苦茶をやってるかと言うとそうではない。設計通りにやってる訳です。
 だからおそらくは古屋さんは、自分が亡くなるなんて思うちゃないですから、まあ大体のところを、設計して渡しておられる。向こうはその設計のまゝやる訳です。さあそこが素人の悲しさ、こっちはわからんもんですから、いよいよ仕事を取りかかって、もう材料も揃い、もうそこに枠なら枠をはめるばっかりになってから、気がつく訳ですねえ。そういうところがもうずーっとなんです。
 ですからこれはまあ、秋永先生やら、高橋さんあたりのような詳しい方がね、おられるからいゝけれども、それがもし誰れも、ただ出来よるばいのと、見とるだけだったらもう、どんな事になっていくかわからん、ような設計の通りするとなってるかわからんのです。けれどもまあ、そこに気がつかせてもろうて、そ、ちょっとそこはというような事で、こゝはこうしてくれという風に、手直し手直しをさせて頂いておる話を、先日聞かせて頂きました。
 これは例えばこちらの御造営の時にもそうであったように、どういう訳、例えば、もう何もかも任せきっとってよかといったような、業者に合楽の場合頼まれんのだろうか。という事をです、思うのですけれども、そんならこちらの御造営の時の事を思うてみてです。そういう例えば一流の素晴らしい業者に頼んでおったとしたら、そんならこゝは半年で出来てしもうておった。言うならば、二年間もかかったおかげで、このお広前が出来たように、後から考えてみて、やはり二流も四流もといったような業者でなからねば出来ない事が沢山あったと言うこと。今になってからそれがおかげであるとわかるように。それもやっぱそうではなかろうかねという訳です。今度の場合でも。
 ですからあまりに、これはどうも、そうしたちぐはぐな事が多いとするならです。これは私をはじめとして、それに携わって、責任をそれぞれに持っておられる御信者、または信者一同が本当に御造営成就を祈願させて頂いておる合楽の信奉者全部がやはり、これはその事に、改まった信心、改まった願いをさせてもらう事にする方が早口じゃろうと。業者にいくら言うても言う事を聞かん、いくら言うても、いつ迄でん出来ん。
 例えばこゝの屋根なんかでもそうです。こうしてお湿りばっかりあるのに、もうあの吹き止めてから、もう随分になりますけどね。もう明日する、明後日すると言うんだそうです。言う事はもう明日はやりますと言うそうです。けれども実際はない。驚いてしまう事は地下室は大水が入っとるとです。その大水の入っとるのを上から、これは素人が考えてもわかる事です。もう縁板を張ってしまっている。どんなに考えても無茶な話ですよねえ。それを今度は汲み出しよるけん、バケツで、もうそれこそ気長い事です。こうやって繰り出しよる。外に繰り出しよるけん、外に繰り出したつはどげんなるのと言うたら、それをポンプでまた向こうさえやらにゃんと。
 まあ素人が考えても、ほんにもうこれで成就するだろうかと思うようにあるけれども。そんならば、五年前のこの、御建設の時の事を思うとです。やっぱりそういう事であったと言うこと。けれども何とはなしに、やっぱり遅うなったおかげ、ぐずぐずしたおかげ、相手が言う事を聞かなかったおかげで、そんならこれが出来ておるという事から推してです。これもやっぱりそうだろうと思うんですけれども。
 これはそこに、私共がそれだけをおかげおかげと言うのではなくて、こちらにひとつ本気で、改まって願うという信者一同、私をはじめ、という信心を神様は待たれておるのではなかろうか。いや確かにそうだよと言うて、ゆうべも話した事でした。そこでそんなら、やれ痛や今みかげをよ。例えばもうどげんこゝがなりよろうが、間違った事をしょうろうが、おかげおかげと言うていく事ではない。その全体の働きそのものがおかげである。だからそこを例えば、痛い思いをするような、歯痒い思いをするようならばです。そこに改まらして頂くというものが伴うて、初めて有難いという事になるのです。
 その事のおかげでわからせてもろうた。その事のおかげで、これは私共もぐずぐずはしておれん。本気で信心の方を、向こうにいう前に、まいっちょ信心を検討し直さんならん事がわかるとするなら、その事がおかげなのです。叩かれたその事が直接有難いじゃない。叩かれて痛いと思う、そこから生まれてくる信心、それが有難いのです。
 叩かれて痛いと言う。言わば口の下から有難いという心。叩かれても、もう即有難いと頂けれる。例えば間違うておろうがです。即有難いと頂けるようなら絶対間違いがないです。間違いがあるはずがないです。それだけの信心が出来ておったら、‥‥だからやはり段階をおうてお互いの信心を。痛いと思うなら痛い事、その事が有難いのではない。痛い事によって改まらして頂く事、わからして頂く事が有難いのである。そこを経て初めて叩かれた、あゝ痛いという口で有難うございますと言う事になってくる訳なんです。
 だから叩かれて有難いございますは出らんけれども。すいませんと言う事が、例えば現在こゝの場合は言えれる実感と言うのがなからなきゃならんのじゃなかろうか。またこげな間違いを致しております。叩かれた訳です。これもおかげじゃなくてから、またこのような間違いをしとります。すみません私共の不行届きだと言うところからです。次の信心が出来るのが有難いのである。
 そういうようにです、お互いの信心の有難い、またはすみませんと言う事に、すべてが絞られるだけのおかげを頂いたら、私は確かに日勝り月勝りのおかげが頂けると思いますね。叩かれて痛い、相手が叩いた、だからその相手だけを見ておる。どういう気持ちで俺を叩くか、と、その相手が言う事を聞かなかったり、相手が暴力を振るったりする事だけを、どうしてお前達はそげん言う事聞かんかと、か、どうして俺を叩くかと言う事だけを見ておったんでは、はじまらないと言う訳です。
 叩かれなければならん、そこにはちゃんとした、厳然とした理由があると言うこと。勿論神様の眼から御覧になってですよね。そうしてでも、お育て下さろうとする御神意を悟らせて頂く。『私は今日は日勝り月勝りという事を頂いてから、御理解にもあります。だからそこのところを頂くのだろうかと思ったところが、そうではなくて、御神訓のやれ痛やという心で有難し今みかげをよと言う御神訓を頂きましたから、この日勝り月勝りと言う事のおかげを頂くと言う事は、こゝのところの、やれ痛やという心の底から、有難いと、頂けれる心を事々に頂いていったら、その事が身についたら、これは確かに日勝り月勝りのおかげが受けられるだろうと思いました。』皆さんもそう思われませんか。
 そんなら確かに日勝り月まさりのおかげが頂けれるじゃろう。何故って、自分はそこんところは、余りにもいい加減にしとる。これじゃあおかげがいい加減になるはずだと、皆さんが今日思うて頂かなければいけんのです。腹の立つ事は腹の立つ事だけでしまえてしもうとる。情けないと思う事は情けないでしまえてしもうとる。その事のおかげで、有難いという、答えが出て来ていない。だからどうでもそういう、例えば答えを出していく信心、そこまではです、お互いが分からせて頂いて、それが身についてきたらです。確かに日勝り月勝りのおかげが受けられるだろう。
 日勝り月勝りのおかげを下さろうとしているけれども、私共は同じところで、ぐるぐる回りをしておるから、おかげがやっぱり日勝り月勝りにならないのだと言う事になるのです。それでこの日勝り月勝りという言葉で御教え下さっています七十八節を、最後のところを読んでみましょう。「神のおかげを知らぬから互い違いになる。信心して神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続き、身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受けられる」とハッキリこゝで御理解下さってある訳です。
 神のおかげを知らぬから、叩かれるというその事もね、神のおかげと知らぬから、どうして叩くかと言うことになるのですよねえ。神様が叩いてでも分からして下さる。例えて言うなら大工に弟子入りに行った、五年間はそれこそ口やかましゅう言われたり、場合には叩かれたりしてようやく、一人前になった。ようし俺が弟子の時分に、おごられたり、叩かれたりしたつを俺が、一人前になったら師匠にひとつ仕返しをせねばならん、なんて、思う人はないでしょうもん。本当に師匠のおかげでと、その師匠の大恩が分かるです。成程師匠が叩いたはずだ。成程師匠が口やかましゅう言うてくれたはずだと言う事が分かるでしょう。神の大恩が分かるという事は、その事です。
 だから神の大恩を知ればです、今度は無事健康で、子孫も続きとこうおっしゃる。もう私共は願ってもやまない事なのです。限りなく願っておる事なんです。それにはどうしても、神のおかげを知らなければいけん。神愛を悟らなければいけん。打たれながらもです、例えばひとつの事が体得させて頂いたら、その打たれたりした事が、神様なればこそと、いう事になるのである。師匠なればこそと言う事になるのである。
 ですから師匠の大恩にでも、師匠の恩ども忘れよっちゃと言う事になる訳です。そういう事になればです。一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来ると、こうおっしゃる。どうでしょうかねえ。皆さん分かられたでしょうか。やれ痛や今みかげをよと言う心になると言う事のために、だから信心の稽古をしておる、と言うてもいゝ訳なんです。それに何十年信心しよったっちゃ、痛か事は痛か、それをこゝの御造営じゃないですけれども、いくら言うたっちゃ言う事聞かん。自分達が言うこと聞きよらん事を忘れて、どうしてこげん言うこと聞かんじゃろうか、ばっかり言うとったんでは、やはりはじまらん。
 これは御造営と言う事は信心の御造営なのですから、何処までも、信心のために御造営があっとると言うてはいゝくらいですから。ただ立派に出来さえすりゃいゝと言う事ではない。その信心の造営と共に、お互いの信心の造営が出来るという事が、本当言うたら、本命なのだから、神様の願いはそこにあるのだから。だから信心の造営という事が言われるのです。だから普通の人がやるところの普請とは違う訳です。
 そこで例えば、やれ痛やという事は、ただ叩かれて痛い、という事だけではない。やれ痛いという事もある。やれ情けないという事もある。やれ腹が立つという時もある。そういう事の全てをです、有難いという心になれよとおっしゃって、おられるのですよ。その有難いという事を言わずに、そこから逃避しょうとする、お互いが。これはもう絶対ですよ。神様の思いがそこにかけられて、そこに難儀というものが、叩かれるという事もです、神様の言わばやむにやまれぬ神願、神様の願いがです、叩いてでも分からせようとなさっておられるのに、叩かれるところから逃れようとすると、逃れた一時はこれでおかげと思いよるけれどもです。その後にはもっと叩かれなければならない事が出来ておるという事です。
 逃避じゃいけません。早うこの苦しい中から逃れたい、逃れたいという事で、ごそごそ逃れようとするから、いつ迄たっても、おかげは受けられんのです。本当に難儀に立ち向かう姿勢こそ信心させて頂く者の姿勢でなからなきゃならない。それでも、尚叩かれてもです、親なればこそということ。親とてもやはり情けのうてこの手が当てられよかというのが、親の心なのですから、そこを分からせてもろうて、一日も早く信心を体得させてもろうて、随分やかましくも言われた。随分叩かれもしたけれども、こゝのところのおかげを頂いた時に、初めて叩かれた事のやかましく言われた事のそれは神様のお働きであった。このおかげを下さろうとする為であったと分からせてもらうから、神の大恩を、そこに知る事が出来る。
 その神の大恩を知れば、無事健康で子孫も続きとおっしゃるのだから、病気をしたけん又お願いをする。おかげを頂いた。病気じゃけん、又お願いした、又おかげを頂いた、というような事がいくら繰り返されたって駄目です。無事健康で子孫も続きというところ迄出なければ。たしかに日勝り月勝り代勝りというおかげにつながるところの基礎というものを、本気で頂かせて頂かなければ。そん為には、今の例えば難儀から逃げ出そうと気持ちをまず捨てなければいかん。それを逃避と言う。成程苦しい中から助かりたいという願いはお互い持たん者はありませんよ。その事によって分からせて頂く事によって有難いという信心。
 私は今日七十八節の最後の一番大事なこゝのところをです。いよいよ何か、今日の御神訓から合わせて頂いて、いよいよ分からせて頂いたような気がする。どうぞ皆さんも本当に分かって頂かなければいけん。何故やれ痛やでも、有難いと言う心にならなければいけないか、という事を今日は皆さんに聞いて頂いたんです。それで何故その有難いという心が出てこないかと言うのは、神のおかげを知らぬから、という事になるのです。
 神様はもうおかげやりとうてこたえんと言う。だから例えば降る事もおかげなら、照る事もおかげと言われるのはその事なんです。損する事もおかげなら、儲かる事もおかげなんです。それには例えばです、損したおかげで、こういうものが分からせてもらったというものにならなければおかげにならん。そのおかげが分かってくるとです。段々分かってきて、もう一人前と言うか、なったときに初めて、神の大恩が分かるのです。師匠の恩が分かる。叩いた師匠の心が分かる。そん時には歯痒いと思うたけれども、成程師匠が叩いたはずだ口やかましゅう言うたはずだという事が分かる。そん時初めて、師匠の恩が分かった時なんだ。
 その師匠の恩が分かった、神の大恩が分かればですよ。こゝの無事健康で子孫も続き、とおっしゃるのだから、どうでもやっぱ分からにゃいかん。しかも身代も出来、一年勝り代勝りのおかげを受ける事が出来る、と推しえて下さるのですから、こゝのところを、本当に金光様は嘘をおっしゃってはいない、というおかげをです。私共の信心で実証させて頂かなければならん。私はゆうべ、オリンピックの入場式の模様を見せて頂いておった。もう本当に世界中からね、白かつも黒かつも黄かつも、皆が一同に集って、もう威儀を正して、あの会場に堂々と行進する姿を見せて頂いて、もう本当に感動した。はゝあ人間の中にはね、こういうその、心があるんだという事です。例えばスポーツという事を通して、世界総人類が手をつなぎ合おうという心があるのだ。
 しかもスポーツ精神であるところの、負けるとか勝つとかいう事はもう第二義のものであって、その技を競うということ。そんなら負けるから勝つからという事では、負けたから歯痒いとかという事じゃない。勝ったからどうという事じゃない。そのスポーツ精神を通してです。世界中の者が一堂に会されて、言うならば世界の平和というものもね、あゝいうような行き方になれば、おかげが頂けるなあと。これは和賀心時代を創るというのは、大体人間本来あゝいうものがあるのだからと思い見よりましたら、丁度四十六番目でしたかねえ。
 『日本が入場するのは、日の丸の旗を。私にはその日の丸の旗がです、真ん中が青色と黄色で、Sの字型に色分けをした丸い、日章旗を立てながら行進する姿を、私の心眼ではそう拝んだんです。はゝあこれは、和賀心時代という、その事だと思ったんです。和賀心時代を創ると言うとも、まず例えばそんなら日本人と言うか又は、金光様の御信者と言うか、いやもっと言うならば、合楽で御神縁を頂いておる、という人達がです。黄と青とに塗りつぶされた、言うならば、これは日の丸じゃないですけれども、そういう心の状態を、押し立てて、世界の隅々に、この有難い御教を推し進めて行くという事だと思うた。
 それには私共がね、いつも黄という事は真ん中、今中という事だろうと思うた。今中という心で。青という事は元気な心とおっしゃるのですから、元気な心でという事だろうと思う。その思うたら今度は「勇」という字です。勇とは片仮名のマを書いて、下に男という字を書いちゃるでしょう。それを勇という字を、ムという字が上に書いちゃる。マという字を反対にしちゃる。そして勇という字のような感じで頂いたんです。
それからこれからいろいろ思わせて頂いて、マとは真になるだろう。ムという事は自分を空しゅうしてという事であろう。しかも黄の今中という心で、慢心の出らない心で、しかも生き生きとした青の色でね。元気な心で、信心精進させてもろうて、和賀心時代を先ず、私の家庭から、私の周辺からという風にです、進めていけばです。これはスポーツという事だけでです。あれだけの心を合わせる事が出来るとするならですね。ましてや人間が本当に幸せにならなければならん、という大変な事ですから、手に手を取って、助かり合うて行こうと言う。和賀心をですね、世界の隅々に押し広めて行けれる事もです、夢ではないんだと。
 それは一朝にして出来る事ではないだろうけれども、そんな事を私は昨日、オリンピックの入場式の、その様子を見せて頂きながら、頂いて感じた事であります。』それには今日私共が申しますところです。やれ痛やという、その口でです、有難いと言えれる信心を、先ず頂かなければならないと言うこと。そこからね、神のおかげも分からしてもらい、神の大恩も分からしてもらい。成程無事健康で子孫も続きというおかげを引っ提げての、旗を押し立ててでなからなければ、言うだけではつまらん。私を見て下さい。私一家を見て下さい。合楽教会を見て下さい、というものをね。やはり頂いてからでなければ、出来ることではないのですから。これはどうでも、例えばこの御造営なら御造営を通してです。私共が信心の、造営をいよいよ計らなければいけないと実感しました。どうぞ。